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重千代繁盛記 前夜 昭和52年6月 中学剣道部の地区大会が山岸の学校で開催される。先輩の応援にいった当時一年の林と山岸がここで初めて会った・・・可能性がある 昭和59年4月 林 手塚・現役合格も納得の結果。親に無理をいって下宿生活 ちなみに父親は実家から東銀座まで通勤)希望に燃えて上京 スペインギターアンサンブルに入部 山岸 軽音楽部「ケースケ」に入部。ヘビーメタル系のバンドに参加し、ベースを担当 5月17日 林・・・・・・・テニスサークル入部するも女子部員がほとんどおらずテニスに見切りをつける。音楽への夢捨て切れず、ジャズ研入部を検討するも、結局「初心者歓迎」に誘われスペインギター入部。最後まで落研との間で心揺れる。又この日、初めて手塚と出会う。後20年近くにわたる主従関係がこの時結ばれる。 時期不明 石澤・・・・・プロとしての第一歩を刻む。主にスタジオワークを中心に活動し。 林・・・・・・・泥酔して国学院大生と新宿駅で大乱闘、夏のリゾートバイトで夜這い事件等 音楽以外の面で暴れまくる!又、同期部員を先導して集団退部を画策。常にトラブルメーカーであった。 60年4月 石澤・・・・プロダクションを辞める。その後はアマチュアとしてバンド活動を行い、渋谷等の有名ライブハウスに出演を重ねる。 山岸・・・・重千代二代目ギタリスト 中原(現在札幌で弁護士)を従え、当時一世を風靡した「ルースターズ」のコピーバンド「セラミックチューン」を結成。学園祭等で大活躍、舞台の骨組みをよじ登り、鉄棒運動をするなどのパフォーマンスを見せる。尚、この頃の髪型は当時としては珍しい金髪だった。 12月 林 手塚・・・・定期演奏会の余興でバンド結成。スタイルカウンシル「オールゴーンアワエイ」をコピー。この頃 林はパーカッション(コンガ、ボンゴ、その他小物)とサックスを演奏、手塚はベースを担当した 61年4月 山岸・・・・・軽音楽部部長に就任。サークル名を「けーすけ」から「ヒートウェイブ」に改める 林・・・・・・・スペインギターアンサンブル幹事長(部長)就任。権力を握り、次々と構造改革を断行。サークル名をAmityに変更。ポピュラー中心の選曲を全面的にクラッシックに改める。自らのポピュラー指向も封印。プレイそのものよりも構成や運営に強い関心を見せる。このことが現在のプロデューサー的関わりにつながっている。初代ギタリスト 二見をサークルに勧誘 手塚・・・・・・指揮者として編曲にも携わる。当時はまっていたバロックオンリーの選曲だった 62年8月 林 山岸・・・・リコー最終面接で出会う。ファン倶楽部第一号会員の竹内と意気投合し、喫茶店で談笑。この日が3人の長い友情の始まりであり、思えば重千代の第一歩となったのであった。 63年4月 手塚・・・・音楽に関わる仕事がしたいとぬるい事をのたまわり、河合楽器に入社。最初の赴任地福島に飛ばされる。甘い幻想とは裏腹の飛び込みセールスマンとして、長い苦闘の歴史をスタートさせる。 林 山岸・・・リコー入社。林は福岡、山岸は宮城とそれぞれ販売会社で飛び込みセールスマンに 石澤・・・・東京リコー入社。やはり飛び込みセールスマンに・・ メンバーのセールス体験が結成当初のコンセプト「サラリーマンの悲哀」へとつながる。 黎明編 昭和63年〜平成元年 山岸・・・・・寮の先輩と意気投合し、スタジオワーク。相変わらずルースタズをコピー 林 山岸・・・正月恒例の「宛てのない初詣旅」中 明治神宮でラジオから流れてきたエディーマネー「ベイビーホールドオン」に興奮。コピーバンドを作ることを約束。この時初めて具体的なバンド構想の話がでた 平成2年 林 山岸・・・・東京に復帰。今はなき新橋事業所に勤務。9F大会議室で昼食をとりながら互いの無聊を慰めあう。愛車サニー(平成14年4月 涙の廃車)に山岸が忘れていったテープ(泉谷しげる「ケースバイケース」)を聴いた林が泉谷の先鋭性ことば」の使い方のうまさを気に入る。バンドは泉谷しげるのコピーバンドとして出発することに決定!バンド名も「泉谷しげるとルーザー」にあやかり「泉重千代とブルーザブロディ」とする(山岸命名)林、山岸のユニットとしていよいよスタート林(Vo),山岸(b)に山岸の実弟 誠(ds)と林の後輩二見こと通称くわた(g)を加え初のスタジオ入り場所はお茶の水?だったような気がする。くわたが二日酔いで遅刻。しかも全くコピーしておらず、山岸の手をみながらコードを 追いかける始末。このエピソードといい、音楽嗜好、感性などまるで現在の石澤のような存在であった。 演奏曲目 長い友とのはじまりに(記念すべき初演奏曲、地下室のヒーロー、春夏秋冬(以上 泉谷しげる)ホンキートンキーウイマン(ローリングストーンず)その後もレパートリーを増やし、スタジオワークを重ねる。渋谷音楽館、そして現在のホームスタジオ「新宿御苑スタジオ」に出没 この頃のレパートリー 翼なき野郎ども(泉谷しげる)グッドドリームス、CMC(ザ・ルースターズ)マイジェネレーション(ザ・フー)魂の裏庭から(ヒートウェイブ) くわた札幌転勤に伴い バンドを脱退。 誠のやる気のなさに山岸腹をたて、くびを宣告。 雌伏編 その後、山岸が結婚し、時間的余裕がなくなった為、目立った活動は行われず。しいていえば自身の二次会で誰もしらないルースターズ「グットドリームス」をオリジナルと称して歌った程度。しかしバンド経験のあった同期に「何がオリジナルや」と見破られる。 平成5年 林・・・・・・・・倒れる。7ヶ月の長期にわたる療養生活を余儀なくされる。当初 事情を知らない山岸がバンドの再開を提案。内容は当時人気のあった「アクセス」のコピーというものであった。当然、この話は幻に終わったが、林の体調が許せば「アクセス」をコピーしていたかもしれないという事実は興味深い 山岸・・・・・この頃 ひたすらこづくりに励む 時期不明 手塚・・・河合楽器郡山支店を経て再び福島支店に勤務。会社の後輩 とバンド「やすらぎぶらざーす」を結成。バンドは後輩主導であり、作詞、作曲、編曲からボーカルにいたるまで全て佐々木が行う。手塚はひたすらバックでストロークヲかき鳴らす日々であったが本人はいたって満足の様子であった。「やすらぎぶらざーす」 活動歴 ・わらじ祭りに出演 オリジナル曲の他 ケーナシスターズを従えフォルクローレの名曲「花祭り」を演奏。好評を博す ・FM福島に出演 ・当時人気のあった「いかてん」のコピー番組 TV uふくしま「たこてん」に出演 ・地元 タウン誌の取材に応じ、リーダーとしてインタビューを受ける。 ・名曲「なかよくしようよ」「ちゃんとするんだ」を始めとするオリジナル曲を一発録りで録音。 平成6年 5月 林・・・ GWに福島訪問。ケーナシスターズと合コン。毛利元就並みの謀略で一カップルまとめるも自身の身に火の粉が。また、この時やすらぎぶらざーすの存在をしる。 7月 林 山岸・・・二人でサマーライブ開催。といっても仲間内のバーベキュー(於 茅ヶ崎西浜海岸)で勝手に歌っただけ・・・前日から林宅で特訓したにも関わらず、聴衆は談笑中にて全く関心を示さず。これが事実上 初の人前での演奏 林 山岸・・・・この頃 二人でスタジオに入る。飲み屋の姉ちゃんを呼び、聴衆とさせる。 飛翔編 平成6年12月 ギタリストに山岸の後輩 中原を迎え、中大ヒートウエイブ同窓会クリスマスライブに出演 第二期重千代パーソネル 林(Vo)山岸(Ag) 中原(Ag) 【演奏曲目】 やすらぎぶらざーすのレパートリーをアコースティックで演奏 「なかよくしようよ」「ちゃんとするんだ」「俺にとやかくいうまえに」 様々なジャンル、ずぶの素人による急造バンドからプロ指向まであらゆるレベルのバンドが集う、非常に有意義なライブであった。 林・・・打ち上げでセクハラ事件を起こし、以後重千代出入り禁止となる。 山岸・・・後輩の「山さん 流されてるっすよ」の一言に荒れる・・・ 平成7年6月 林 山岸・・・・・竹内の結婚式で「なかよくしようよ」を演奏 時期不明 この頃 やすらぎに触発されオリジナル路線へ。第一号オリジナル曲「東京にすんでいる男」(林作詞作曲) 「イブニングニュース」山岸作曲 林作詞)次々とオリジナル曲を発表。又 同時期に石澤がサポートメンバーとして参加。スタジオに入る 松戸まつり参加に向け続々とオリジナルナンバーを制作 10月 松戸まつりに参加 石澤を正式にメンバーに迎える 第三期重千代パーソネル 林(Vo)山岸(Eg)石澤(Eg) 山岸・・・・・なぜかギターにこだわり、頑なにベース担当を拒む。このころから私生活や仕事の重圧が様々な問題行動、発言を誘発するようになる 【演奏曲目】 東京に住んでる男、イブニングニュース、プライオリティ(林作詞、作曲)、なかよくしようよ、ちゃんとするんだ |
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