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5)1974年に私は特別トレーニングコースに選ばれました。その経験が、やがて世界の見方を変え始めることになろうとは、少しも気づきませんでした。 中国政府は国内の優秀な武術選手を選別する計画を実施していました。選考の過程は、数ヶ月を要していました。私達のグループは、しばらくの間は一緒にトレーニングをしていましたが、しばらくしてコーチたちがふるいにかけ、上手でないものはふるい落とされました。このプロセスは繰り返され、何度もコーチたちが満足するチームになるまで行われました。私達30人が、最終的に残りました。 最初の任務は、アメリカ親善ツアーで中国の(そしてその2億人の武術実習生の)代表となることでした。ご想像どおり、大変重要な訪問でした。この時期はまだ中米関係は非常に微妙なものでした。 西洋訪問の準備として、私達は驚くほど綿密なトレーニングコースを課せられました。と言っても、私は武術トレーニングを意味したのではありません。・・・私達は、今となってはそれには慣れてしまっていました。この時は、西洋の社交エチケットの何から何までをも習うように要求されていました。ナイフとフォークの使い方を教わるだけでなく、それぞれのコースでどのナイフとフォークを使うのかも覚えてなくてはなりませんでした。そして、それからは少し社交的な優雅さができました。・・・何も条件がなけば、私達はナイフを皿に当てたり、噛んでいる間歯を見せたり、品のない様子で楊枝を使ったりしていたのでした。 先生達は礼儀正しい行儀や飛行機旅行での飛行機の乗り方・・・大人しく座っていることなどの立ち居振舞い・・・なども教えました。電話での適切で儀礼的な受け答えやアメリカ人がする質問の聞き取り方と答え方、群衆に囲まれた時の望ましい振舞い方などを学びました。すべてがとても複雑でした。そんなエチケットトレーニングが半年も続いたのです!私達はこのすべてを学ばなければなりませんでした。期待通りの完璧な武術パフォーマンスに加えてのことです。 とうとう学習も終わりに近づき親善ツアーに出発できることになると、私達はぞくぞくしました。私達はアメリカの4都市を訪問することになっていました。ホノルル・サンフランシスコ・ニューヨークそして最後はワシントンでした。 北京を出発し、まず香港に飛び、そこからメキシコに行きました。そこでは半月ほど武術のデモンストレーションを行いました。そこからハワイに飛びアメリカの土に第一歩を記しました。そこではうかつにも私が喜劇場面の中心になってしまったのを覚えています。それはもう少しで国際的な大ごとになるところでした。 ホノルル国際空港で、私は機体の横に「中華航空」と書かれた飛行機が走りすぎるのをたまたま見ました。その時は(今でもなお)中華航空は台湾の会社によって所有・経営されていました。けれども、もちろん私はそのことを知りませんでした。ひどく興奮して私は叫びだしました。「うわあ!見てよ、中国から来た飛行機だよ!中国の飛行機!見て、みんな!見て!」 即座に大人たちが手で私の口を塞ぎ、どなりました。「もういい!」 「はあ?」 理由はもちろん中国本土は中国本土、台湾は台湾だということです。70年代中ごろは中華民国と中華人民共和国の区別よりももっと重要で政策がありませんでした。とても微妙な政治的事項だったのです。 私は、自分の国が飛ばしている飛行機だと思ったものを見て興奮しただけだったのでした。大人たちが私を黙らせた時、私はすぐにまずい事をしたと悟りました。私は死ぬほど怯えました。本当に家に帰らされるかと思いました。 続く・・・ (6)私達の一団は、確かに高水準な警備の相手でした。私達チャンピオンを含み、44人がツアーにいました・・・そしてそれに中央政府の情報局からのボディーガードが26人加わりました。このガードマン一人ずつが私達二人のガードを任命されました。加えて、大規模なアメリカ警察隊が私達の行くところすべてについてきました。訪米中の中国人に何が起こるか誰にもわからないので、パトロールカーが行列で私達をエスコートし、たくさんの役人が大衆に対して私達からの距離をおくようにしてくれました。他の何人かはナーバスになり、悩んでいたようでしたが、私はとてもわくわくしていました。こんなに近くでおまわりさんを見たことがなかったからです。 大きくなるにつれ、私はやんちゃっ子になっていきました。他の子供達の多くは、武術学校に入る前はいたずらっ子だったのが、徐々に従順にしつけられていくものでした。私は反対でした。私はとても大人しい小さな少年でしたが、大きくなるにつれて、私はよりふざけたがりになり、むしろ生意気になってきました。ほぼ一ケ月も家を離れていると、好奇心を満足させるべくずうずうしく、ずうずうしくなっていきました。 例えば私は、ボディーガードが身に付けている拳銃に惹かれました。ボディーガードは、私達と話をすることを、公式には思いとどまらされていたにもかかわらず、私は拳銃をもっとよく見せてとか、持たしてくれないかなあとか、お願いし続けました,特に覚えているのは、自分のボディーガードにいつもジョークをとばしていたことです。私は年のわりに背が低くて胴の中ごろまでしかとどかなかったので、私達が歩く時はいつも彼のシャツをつかんでいるのが習慣となっていました。彼が前を歩くと後ろをついて歩きました。すばらしいことに、私は身長のせいでちょうどベルトに接近し、当然そこは彼のホルスターがあるところなのでした。「うわー、かっこいい!」と言って彼の銃に触ろうとして手を伸ばすと、彼はピンッと緊張したものでした。 私はこれを毎日少なくとも一回はしていたはずです。 な〜んてすてきな思い出! 中国での工チケットトレーニングの中でテーブルセッティングの訓練がありました。お皿の横には、それぞれフォーク・スプーン・ナイフ・バター皿といった大軍が並んでいますよと言われていたのでした。このナイフはバターを塗るためのもので、あのナイフは全く別のためのものでした。「全ての食器にはその独特の機能を持っていて、もし間違って使ったりしたら、母国の体面を失いかつ自分の将来への希望も断たれるだろうと私は確信していました。正直なところ、私たち子供はナイフとフォークの組み合わせに多少苦戦していました。「覚えたテーブルマナーを忘れませんように」とくり返し自分に言い聞かせていました。 しかししばらくしてくると、ボディーガードたちが・・・並んで食事をしていたのですが・・・いつも正しいナイフの使い方をしていない事に気付きました。実際、チキンを手でひっつかみむしゃむしゃ噛んでいました。ナイフとフォークでていねいに切り分けるかわりに、大口を開けてかぶりついていたのです・・・私たちが呆然と見ている前で。 私たちが教わったエチケットの仕組みはバッキンガム宮殿から来たままのものだとあなたはきっとわかるでしょう。もし英国ロイヤルファミリーと食事をすれば、あなたは彼らがそのルールであると気付くでしょう。・・・彼らはまさにフォーマルなのです。 ・テーブルについている時は、両足はきれいに閉じている。 ・テーブルの上に腕をのせずに、かわりに、あなたの膝の上にきちんと重ねておく。 ・ホストが食事を出してきても、動いてはいけない。ホストが自分のナイフとフォークを持ったら、やっと同じ様に食べ始めても良い。 要するに、落ち度のないように準備をしてアメリカに向かったのでした。 そして私達は、すべての食事があらかじめ用意されて長いテーブルに載っていることに、気付きました。なんとさらに、私達は一枚お皿を持って、そのテーブルまで行くように勧められたのです。・・・あなたが食べたい物はなんでも、食べたいだけどうぞ。そして自分の席について自分でお皿を置き、すぐに食べ始めることが出来たのです。 右を向けば・・・カタカタ大きな音や、食事をするがやがやした声が聞こえました。 左を向けば・・・トレイを下に置いたままで、しゃがんでいる人達がいました! 全てのルールが犯されていました。・・・そして誰も気にしていません! 私達はアメリカでの最もカジュアルな形での食事スタイルを経験しました。私達が見る限り何処でも、彼らは音を立てて食事をし、間違ったスプーンの使い方をしていました。私達は自分達が教わったことすべてが必ずしもこの社会で当たっているとはかぎらないことを悟り始めていました。11の歳にして、自分自身でものを考え始めました・・・すなわち、すくなくとも矛盾に気付くようになりました。 以前学校では、私達はこう思うように教育されていたのでした・・・「中国は良い。中国の物はすべてが良い」そして「西洋の国は退廃的な社会だ。アメリカの物はすべてが悪い。」しかし、私達が実際にこの西洋の国を歩いて感じたことは、すべてのものがなんて中国と違うのだろうということ・・・そして必ずしも悪い面とは限りませんでした。「ワオ!たくさんの車があるね。ねえ、あの高いビルを見て!ギャ、アメリカ人って本当に自分の裏庭にプールを持っているんだね!」毎日が新しい「ワオ」の連発でした。 私達はあえて「ねえ、本当にここはいい所だね!」とは言いませんでした・・・けれども皆が心の中で思っていました。 続く・・・ (7)私達が教わっていたのとは逆に、アメリカ人が全員悪い人ではないと私は発見していたのでした。国務省からのボディーガードとの経験によってそのことが証明されました。彼らはとても礼儀正しくて、全く無情ではありませんでした。列の中へ引っぱられた時は、それは彼らが無事を保証しようとしているからなのです。道に迷わない限りは、彼らはとても親切です。彼らの義務として打ち込んでいる以上に、彼らは異常に私達に親切でした。私は心の中で、大人たちが私達に教え続けていたこと「すべてのアメリカ人は信頼することのできない敵の分類ですよ。」を信じるのは困難でした。 ニューヨークに着くまでは、私は自分たちのホテルの部屋すべてに盗聴器がアメリカ政府によって仕掛けられてあるよという事も、本当なのかなあと考え始めていました。私たちが言ったことすべてを注意してみることは、私達に本当に必要なのかな? ある日、バカみたいだと思いながら、電話に向かって、(受話器を持たずに)しゃべりました。「ヘイ、僕はチョコレートが欲しい、僕はチョコレートが欲しい、僕はチョコレートが欲しい。」それから鏡に振り向いて言いました。「僕はアイスクリームが欲しい、アイスクリーム、アイスクリーム、アイスクリーム。」最後に、私は花瓶の方に走っていって言いました。「僕はバナナが欲しい、僕はバナナが欲しい、僕はバナナが欲しい。」私はすごくおもしろがっていました。それから誰かが夜の演技の準備をするように私達を呼びに来て、わたしは全部そのことを忘れてしまいました。 その夜遅く、私達がホテルに戻った時、私はドアを押して開け、・・・驚きで死にそうでした。私のボディーガードも同様に怖がっていました。 机の上には、チョコレート、アイスクリーム、バナナがありました。 最初私はスポンサーからの贈り物かと思いました・・・そしてチームの誰もがまた同じようにもらっているのだろうと。きっと、私が切望していた食べ物がたまたま贈り物と一致しているだけなのです。私はみんなのそれぞれの部屋にチェックしに走っていきました。「ねえ、君達、自分の机の上に素適な贈り物あった?」 「いいや」 私の部屋だけでした。その出来事のあと、私は少し用心深くなりました。 最後の滞在で、私達のツアーのクライマックスは、ワシントンでした。そこではチームから選ばれた数人がホワイトハウスの芝生の上で武術のいつもの型を演じました。演技のあと私達は正式にアメリカの高位の人たちに紹介され、公式な写真に一緒にポーズを取りました。私が覚えているのは、ニクソン大統領が私のチームメートの女子と一緒に立ち、私はヘンリー・キッシンジャー国務長官の隣に立ちました。ある地点で、ニクソンが私のほうに向きを変え、言いました。「少年、君のカンフーはとても印象的です!大きくなったら私のボディーガードになるのはどう?」 「いいえ」私はうっかり言いました。「私は個人を守りたくないです。大きくなったら、私は自分と同国の10億の中国人を守りたいです!」 人々は呆然としました。不安な静けさでした。誰も私にそういった答えを期待していませんでした・・・一番小さい私に。 キッシンジャーがその静けさを最初に破りました。「おや、こんな若い少年が、もう彼は外交官のように話すんだね!」 数日と経たず、私達が大使館でのディナーでアメリカ訪問を締めくくっている時に、誰かがニューヨークタイムズに写真と見出し付きでホワイトハウスへの私達の訪問が載っているのを、私達に見せてくれました。その記事は全部のやり取りが描写されていて、小さな代表者でさえあんな熱烈な国家主義者としての返事をするように訓練されていて、赤色中国(中華人民共和国の俗称)では、どんな教育方法をしいているのだろうと続いていました。 当然ながら、中国政府はニクソン大統領に私がした返事に対し問題はありませんでした。彼らは私を高く評価しました。あんな愛国的な返事をするとは、なんてりこうな少年だ! もう一度、私は満点を稼ぎました。100パーセント。A+。 続く・・・ |
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