
NET・中古車査定 |
|
(10)1976年の初めに、私達は国際親善ツアーを始めました。チームはヨーロッパ中の都市、アジア、アフリカ、中東で上演しました。私達が訪れた国のすべてで、たくさんの楽しい事が起きました。イラクに行った時は、信じられないくらいに暑かったのでした・・摂氏50度ぐらいでした。その暑さは本当に耐えられないぐらいでした。全く信じられませんでした。真昼はとてもひどくて、昼寝をする前に、バケツで水を汲んできてベッドにかけました。なぜならその上に寝るには、寝具が熱すぎるからです。私達は湿ったシーツで寝るのでした。1,2時間経つと、そのシーツが熱で乾き、私達はもう一度全部それをするために起きるのでした。当然、ホテルはそのことを知りません。・・・私達はひそかにやったのです。互いに「ただ暑すぎるんだ」と言いながら、自分達のベッドに水を注ぎました。今思うと・・もしこんな生き方を経験しなかったら、私達は決してこのユニークな温度調節の方法についてはわからなかったでしょう! 1977年にチームはアフリカのツアーに行きました。そこでもまた暑さが問題になりました。私達の公演の全ては夜の時間に予定されていて、始まりは午後10時頃でした。昼の公演は、選手にとってもそして同様にお客さんにとっても実際的でありませんでした。なぜなら多くの国で体育館をもっていませんでした。私達はサッカー場で上演しましたが、誰もわざわざ昼の間に太陽の中で座ろうなんて人はいませんでした。夜でさえ私達が慣れていたようなものよりはるかに暑かったのでした。私は覚えています・・・サイドラインにそって私達のための飲み物の大きな樽がたくさんセットしてくれていました・・・それらは炭酸飲料を冷たくするためにぶ厚い氷がいっぱいでした。ある夜、とっても暑かったので私は樽の一つに深く手をのばしてボトルをひっつかみました。暗くてそのラベルが見えなくて、何の味なのか知りませんでした。けれどもかまいませんでした・・・覚えているのは何か冷たい物を飲むのが必要だったことです。私はストレートにがぶ飲みしました。・・・一口でボトルの半分ぐらい飲みました。冷たい液体がとても気持ちよく私の喉を通り過ぎていきました。 ボトルを下ろすまでは、少しめまいがし始め、軽い頭痛がするのに気が付きませんでした。 お偉方はすぐに私がいまシャンパン!をごくごく半分飲み終えたのを発見しました。私がそのあとに演じるのはよくなかったので、その夜は私に取って代わる人を探さなければなりませんでした。 旅行中、私達は飛行機で国の間を旅行しました。思い出すと、あるアフリカの国では2機の飛行機しか所有していませんでした。そのうち一つは小さい乗客用ジェットで・・大統領や職員が普段乗っていました。もとは、私達はこの飛行機を使う予定になっていたのですが、私達が飛行場に到着したときに知らされた事は・・・大統領が使っているので、もう一つの貨物飛行機を使ってください・・・でした。 まあ、何事にも初めてと言うのがありますよね、まるで映画のなかのようでした。貨物用飛行機は大きくて空洞になっていました。その残り物の飛行機は着陸ポジションに貨物が積みやすいようにとまっていました。私達はこんな風に乗り込みました・・・後方から縦隊でタラップを登りました。男子は左、女子は右。飛行機の中には乗客用飛行機のようなクッションの椅子の列はありませんでした・・・ただ2本の長い金属のベンチが飛行機の両側にあるだけでした。それなので私達は2列に向かい合って座りました。まるでパラシューターが飛び降りる飛行機のようでした。私達はとってもおもしろいと思いました。なんて奇妙な飛行機なのだろう!なんてへんなベンチ! それから誰かが頑丈なロープが両ベンチの前の足元に通っているのを見つけました。何のため?きっとシートベルトに違いない。 2本のロープがあるだけで、私達からは離れすぎています。 パズルはそのうちに解けました。 飛行機のドアはまだ閉まってはいないのでした。外からは、大きなドシン・・・ドシンドシンとしてから私達が見たものは・・・牛と羊の群れがタラップを乗りこんできて、貨物飛行機の中央を占めたのでした。 ぼく達はみんな一緒に飛ぶのか! なんて奇妙な積荷なんだろう・・北京武術チームは両サイドにいて、家畜が中央。牛や羊は私達のまさに隣にいました。私達が座っていて、あっちが立っていて、飛行中はロープを横切りお互いに見ていました。 そのフライトで述べておく事がもう一つあります。乗客用飛行機は人間のために快適な乗り心地となるよう音の緩衝装置やショックの吸収材で造られています。貨物飛行機はもちろん普通は貨物用なので、そういったものは何もありません。その結果、乗り心地はおそろしく騒々しくて、激しくがたがた揺れました。幸運な事に、長いフライトではなく・・そう、私達はこの耳を聾する、ガタガタ揺れて乗ることをだいたい40分ばかり我慢しなければならないだけだったのでした。そして実際に、マッサージのようでした。つく頃までには誰の筋肉もとてもとてもほぐれていました! (11)振り返ってみると、私はこのアフリカでの2ヶ月の間に飛んだ時には、毎回飛行機ドラマのようなものに直面しました。ちょうどその数ヶ月前にDC−10の事故があったために、同じモデルの飛行機をチェックするように国際的な警戒警報が出されていて、修理作業がされている間は、空港ではたくさんの遅れがありました。一度は、私達はアンティークのWWUのプロペラ飛行機で運ばれた事もありました。それはドアが安全に閉まるようにロープで守られていたのです! それでも、最終的には私達のツアーは終わりとなり、うちに帰る時になりました。私達が帰りに乗る事になった飛行機は中国からので、思い出すとそれはボーイング707でした。 アフリカの国の大統領が北京を訪問した後に乗って帰ってきていました。それで私達は帰りの飛行で乗せて行ってもらうのでした。ガタガタ揺れる飛行機に勇敢に立ち向かってから2ヶ月後なので・・このときは素適な考えだなと思いました。私達はやっと中国に帰るという飛行になるのでした! 私達はカメルーンを離れました。飛行プランは、ザイールで少し停まり、他の乗客を乗せ、そして母国へと去っていくものでした。 飛行の初めは、スムーズに行きました。私達はザイール上空に時間どおりに着きました。けれどもしばらくして、私達は飛行機が滑走路の上で円を描いて飛んでいるのに気が付きました。何故着陸しないのか、わかりませんでした。その飛行は4時間しかかからないはずだったのに、時間は刻々と過ぎていきました。飛行機は空港の上を何度も何度も繰り返し円を描いて飛び、それはとても長い時間でした。私はスチュワーデスが今はもう通路を行ったり来たり歩いていない事に気が付きました。実際、全く何もしていませんでした。彼女達は自分の椅子に座って、とにかくじっとしていました。そして幾分青ざめて見えました。この事は、私達の好奇心をあおりました・・何故動かないの? 窓の外を見ると、下に空港が見えました。何故未だ着陸しないのだろう? しまいには、スチュワーデスの一人が封筒と便箋の束を取り出し配り始めました。 遺言を書く時が来たのです。 とうとうパイロットは何が起きているのか説明しました。着陸装置が動かないのです。後ろの車輪はいいのですが前のは適切に動かないのです。その時私達はガガガガ〜ガガ~ガガガグウウウウウウフウウウウガガガガ〜ガガ~ガガガグウウウウウウフウウウウの音が時々聞こえていましたがそれについてはあえて尋ねませんでした。スチュワーデスは私達に書くためのペンをくれました。 実を言うと、私は若い頃は教室で多くの時間を過ごす事がありませんでした。そしてとてもたくさんの文字を書くような機会もあまり在りませんでした。皆さんは私の勉強が足りないと思うでしょう。私はペンを持ってどうしたら良いかわからなかったのです。私は極端に心配しました。・・・自分の遺言を書くように言われたからではありません、そうではなく、私は白紙の紙をじろじろみていたのです。それはまるでピンポ〜ンのクイズのようでした! 私はなんて書くのかわからなかったのです。私はまわりの人が危機に直面してどんな様子だったのかさっぱり覚えていません・・・ただ恐怖に陥っているのを覚えています・・「もっと型を練習するよりも・・むしろ、すぐにドリルをやらなくちゃ。書くどころじゃない!」私の知力では得点できませんでした。何を書こうと思っていたのかって? 私は少なくとも10分間、全く途方にくれていました。それから思いつきました。「あ!ページの最初に『いしょ』、とか『ゆいごん』、とか書くのか。」問題は最初の『い』という字をどうやって書くのか思い出せません。「先生、いしょの『い』の書き方を教えてもらえますか?」 「こんちきしょう」彼は答えました。顔を向けもしないで。 私はとても不幸でした。 やれやれ、教えてくれない・・だけども私をののしることはありません。 今にして思えば、その状況は全くばかげています。もちろん全ての人は自分の切迫した死について苦悩していて、それで・・・私はばかげた質問をしているのです「『遺書』の字の書き方教えて?」 決して一度も自分が死ぬかもしれないとは思いませんでした。・・飛行機が墜落して自分が死ぬなんて。全く恐れませんでした。私はその紙をいっぱいにすることに悩むのに忙しかったのです。 私は遺書を書き上げませんでした。 奇跡的に着陸装置に頼らずに無事に着陸しました。 極悪な状況にショックを受けたのは、私はあとになってからでした。飛行機のドアがあいて外に出してもらった時でした。外を見たとき私の両足はぐにゃぐにゃになりました。 飛行場はまるまる閉鎖されていました・・・兵隊がいたるところにいて、何十もの消防自動車がホースを全て準備して警戒態勢をとっていました。そして緊急の職員の隊がどんなだったのかというと、スタートポジションの場所で身構えていて、今にも私達の方へ全速力でダッシュしようとしていました。 このツアーは、ほかとは比べ物にならないほどの教育でした・・・。 |
DION(DDI)インターネット! | 無料でホームページ! | 不動産・建築・安い設計 |